Augusta National & Masters
毎年3月にもなると、春を告げるゴルフメジャー第一戦のMastersの開催が迫り、わくわくする季節です。 Bobby Jonesと Alister MacKenzieが心血をそそいで1933年に完成したAugusta Nationalで、翌1934年に第一回が開かれて以来、戦時中を除いて毎年開催され77回を迎えます。これに匹敵するのは日本では“春はセンバツから”の甲子園の選抜高校野球でしょう。好一対の春の国民的なスポーツとして、開催場所はともに聖地化され、数々の名勝負、伝説を生んでいます。 Mastersは、コースの美しさもあって、メジャーの中でTVの視聴率がもっとも高い大会です。
(写真はWeb投稿アルバム集より借用)
思いがけずの幸運:
そのAugusta Nationalで思いがけずプレーする幸運に恵まれたのは、30年ほど前、ぼくがNew Yorkに駐在していたころの83年4月でした。その前年に、勤務先の日本のT社の幹部が、米国の提携先AC社の会長が入会していたAugustaへ招待されてプレーした帰途に、われわれNY駐在員にみやげ話を聞かせてくれました。その席上で、“またプレーの機会があれば、バッグ持ちで連れてください”と言ったのですが、冗談のつもりだったのが、新年早々に“4月にAugustaへ今年も呼ばれるらしいので、都合がよければ君も参加しないか?”とのTelexが社長から入りました。 社長や幹部たちとは何度かゴルフをともにしてぼくのゴルフ好きは知ってくれていたのですが、あのときの言葉を覚えてもらっていたとは! すぐに“万難を排して参加させていただきます“と返事を打ちました。まさに晴天の霹靂、天にも昇るうれしさでした。
AC社は米国の化学、医薬品の大手メーカーで、日本にはT社との合弁会社があり、長年に亘る親密な関係でした。AC社会長はT社の米国法人の米人副社長と大学の同級生だったおかげで、ぼくも会長の知己を得ていた好運もあり、ぼくの参加の話はスムーズに運んだようです。ただし、合計で2組になり、一方でメンバーはゲスト3名しか呼べないため、会員がもう1人必要になり、AC社の社外取締役で会員だったカナダの大手金属メーカーの会長が、Montrealから社用ジェットでAugustaまで飛んで来てくれることになりました。とんとん拍子に進んで行く一方で、気持ちの高ぶりを抑えることができず、Seve Ballesterosの優勝したその年のMastersのテレビ観戦もいつも以上に熱が入りました。それに備えて週末は幾度となく寒風の中で行き付けのDriving Rangeでボールを打ったものでした。
いざAugusta Nationalへ:
いよいよ4月25日の昼過ぎ、AC社側4名と、T社側3名は、小型私有機専用のTeterboro空港(New Jersey州)から、AC社の社用ジェットで一路Augustaへ飛び立ちました。10人乗りほどのツインジェットで、一人がけの革張りの椅子はゆったりとファーストクラス並み、回転して機内会議もこなせるように作られていました。離陸するとCo-Pilotが飲み物、食事を運んでくれ、至れりつくせりです。当時のプライベートジェットは燃費にはこだわらず、大き目のエンジンを搭載して、高空を高速で飛ぶように作られていたそうですが、その通りとても快適な飛行でした。その後、ほかの大企業の社有ジェットにも何度か搭乗しましたが、急速な経済発展で“Japan As No.1”とまで称されたわが国でも、まだまだ追いつけないアメリカ社会の懐の深さ、とりわけ大手企業の余裕と豊かさを感じさせられた感激の初体験でした。
(頂いた写真が30年前の古いもので、更にHP用にメモリー容量を大幅に圧縮しているので、折角の写真が少々シャープではありませんがご了承ください)
Augusta空港では、荷物引き取りの手間もなく、待機していたクラブからの差し回しのリムジンで、あっという間に大木の並木道のMagnolia Lane、そしてテレビで見慣れた白亜のClub Houseが正面に姿を見せます。手続きはすべてAC社で進めてくれていたので、そのまま宿泊用のロッジに案内されました。木目調の壁、家具に、バス、トイレつきで、ゆったり落ち着いた旧きアメリカの民家のたたずまいの部屋だったのを記憶しています。やがて荷物が運ばれてくると、電話で召集がかかり、AC社会長からクラブ内での注意(遵守)事項の説明があった後、Club House内、例のGreen Jacket Room、Locker Room、Crow’s Nest(Masters参加のアマ選手用の最上階の宿泊施設)やコースの一部などを見て回り、バーでのカクテル、次いでレストランでの夕食と、心踊る楽しい時間が進んで行きました。カナダ人の会員も予定通り到着していて、翌日の予定、組み合わせや、ゲームの余興としてSnakeの採用などが決まり、早めにロッジに戻りましたが、なかなか寝付けなかったのは無理からぬところでした。
AC社で、ゲストの氏名、年齢、住所、勤務先、所属クラブ名、オフィシャルハンディなどを事前登録してくれていたので、我々は書類の記入やチェックインの必要は一切なかったのですが、最近プレーした日本人が書いていたところでは、申し込み書類を取り寄せて記入し、メンバー経由で郵送すると、しばらくして招待状と、数ページもの遵守事項がファイルされたバインダーが届いた、その中の宣誓書にサインしてFAXで送り返すという手続きがあったとのことです。時代が変わると、ゲストの受け入れもすこし厳しくなったようですが、クラブのemblemとゲストの名前の刻印されたバインダーはなによりもいい記念になることはたしかで、心にくいまでの広報活動です。
夢にまで見たコースでプレイ:
4月26日、火曜日、スタートは8時前。 肝心の天候は予報通りの快晴で、気温も快適、コースは色鮮やかなAzalea(つつじ)に飾られていました。第1組のAC社会長とT社社長、役員、日本の合弁会社の米人社長、のシニアグループがまず出発。 次いで、ぼくたちのグループは、カナダの会長さん、AC社国際担当役員、合弁会社の日本人役員、の顔ぶれでした。ハウスキャディが1人づつバッグをかついで、もちろん歩きです。ぼくはそのころ、自己流ながらたまたま勢いに乗ったのか、ハンディは一桁になり、少々の自信はありましたが、NYではゴルフシーズンは始まったばかり、この日がその年の3度目のラウンドで、不安もいり混じっていました。
すべり出しはガチガチ どうなることやら
あのジャンボ尾崎ですら、初めてのMastersでは、手が震えてティーアップができずキャディにやってもらったと書いていました。ぼくもテレビで見たままのコースの光景に緊張は隠せず、ティーショットはフックして左の林へ、2打を3アイアンでグリーン近くまで運んだものの、アプローチミスでいきなりダボでした。最初の2-3ホールは雲の上を歩いているようで、先々が思いやられる出だし、やっと4番のショート(170ヤード)を4アイアンで乗せて〔但し3パットのボギー〕、少し落ち着いたようです。キャディのJimも、ぼくの飛距離がつかめてきて、何も言わなくてもさっとクラブを渡して、手前から攻めろ、大きめに打て、左を狙えなど、指示をしてくれるようになりました。 彼はAokiやJumboのバッグをかついだことがあったとのこと、日本人はAccurateでCleverだと話していました。ご存知のように、外国の名門クラブの専属キャディたちは、例外なく腕達者で、スイングを見れば客の腕前がわかるし、よくワンポイントレッスンをしてくれたり、頼もしいパートナーたちでした。
最初のハーフは、ダボが一つ、残りはボギーの山で、46になりました。惜しかったのは、8番の460ヤードの打ち上げのパー5です。5番ウッドの第三打が真っ直ぐ飛び、奥のピンの上1mぐらいにつきました。みんなは、バーディだとはやしたてます。 Jimからは”Very icy”(氷のように早いぞ)と注意を受けたので、パターでちょっと触っただけのつもりでしたが、ホール手前から加速して大きくオーバー、バーディ崩れのボギーになってしまいました。 Augustaでは、下りのパットは油断できないことをつくづく思い知らされたグリーンでした。
Amen Corner を無事突破 運も味方に30台か!!
飲み物と軽食を取って、後半へ。10番はボギー、11番は右の林に打ち込むトラブルをなんとかボギー。12番の池越えのショート(155ヤード)はワンオンでパー、13番のパー5、も3オンで、パー。 心配していたAmen Corner は無我夢中のうちに予想以上のスコアで通り過ぎていました。14番のパー4、15番のパー5も、運にも恵まれてパーで切り抜けました。16番のショート(145)は左の池を怖がり、右のバンカーへ入れボギー、しかし、17番では、下りの2mを慎重に2パットで決めてパーと、信じられないような出来過ぎのホールが続きました。18番がパーならば30台でしたが、力が入りてんぷら気味の左のラフ、2打は左のガードバンカーに放り込み、そこから奥へホームラン、ガックリ来たのか返しが寄らず、結局4オン、2パットの痛恨のダボで、41になってしまいました。
(写真はWeb投稿アルバム集より借用しました)
それでも合計87は二日間の全員の中で思いがけなくLowest Grossでした。 東京の合弁会社の米人社長は、学生時代 Jack Nicklausと戦った経歴を持ち、きれいなスイングでよく飛ばす本格的なシングルでしたが、この時はショットがかなり曲がり、アプローチもミスって大たたきのホールがずいぶんありました。印象に残っているのは12番の池にかかるBen Hogan Bridgeの手前でみかけた鮮やかな緑色の蛇、あまり大きくはなかったが、キャディが ”It’s deadly, be careful!”と、石を投げると水の中に悠々と姿を消して行きました。まるでこのホールを守る水の精みたいでしたが、後で聞いてもやはり毒蛇だったそうです。
広々したFairway 難敵はグリーン
当時はまだパーシモンヘッド、スティールシャフトが全盛で、やっとTaylor MadeのPittsburgh Persimmonと名づけたメタルヘッドが出始めた時代です。今から思うとボールもクラブも硬くまったく飛ばないもので、現代のスイングとは違って、大きな体重移動でためを作り一気にリストを返してDrawで距離を稼ぐようにしていました。それでも、スコアをまとめられたのは、Fairwayが広く伸び伸び打てたし、ラフは名門にしては珍しく刈り込んであったことが大きかったと思います。何年か前の非公式なデータでは、Masters用のTeeでCourse Rate 78.1、Slope 137 だそうです(米国のコースの平均Slopeは123)。
難しいコースなのは間違いありませんが、逃げ場のないホールが続くほかの有名難コースに比べると、緑豊かでゆったりしたコースの設定と美しさには威圧感がなかったことはスコアを助けたのは事実です。悪天候でなく、好天に恵まれたのも幸いなことでしたし、さらに我々の使ったMembers Teeは6250ヤードと平均的な長さだったことが、ぼくのような距離の出ないゴルファーには有難いことでした。(当時のMasters Tournamentは6905ヤード、今は飛距離の伸びに対応して7500ヤード強に延長されています)。ぼくはあまり曲がらず、ショートゲームでまとめるいわゆるBogey Golferですが、Augustaは、打ち上げホールがけっこうあり、Fairwayはかなりうねっていてショットは簡単ではありません。なによりも、トーナメントほどではないにしろ速く、かつ傾斜のきつい大きなグリーンは最大の難敵でした。
ショットが少しずれると、蹴られて大きくこぼれたり、水やバンカーに入ったり、落とし穴にはまってしまいます。Mastersでは何度も優勝や上位入賞を果たしたNick Faldoはグリーンセンターを狙う堅実なプレーでしたし、その他にも飛距離よりも正確さを誇る選手がたくさん優勝を飾っています。同じように飛ばないが曲りの少ないDraw系のぼくはコースとの相性はよかったのでしょう。
キャディに助けられ
特筆すべきは、やはりキャディの存在で、飛距離、球筋、癖をあっという間に見抜いたクラブの選択、パットのラインを的確に教えてくれたJimmyのおかげでした。 どこのコースでもいいキャディに恵まれたときはいいスコアが出ているのは当然ですが、とりわけこの時はキャディに助けられました。
キャディと言えば、後半で忘れられないのは、14番、380ヤードのだらだら上がりで、実質400あまりのタフなパー4です。二打の4番ウッドは一旦乗ったのにコロコロとグリーンエッジへ戻って来ましたが、Mastersでもよく見るシーンです。 Jimmyはぼくにパターを渡して、グリーン真ん中のピンではなく、左端を指して“Hit hard as you can”と言います。“No kidding(うそつけ)”と言うと、“Do what I say!(おれの言うとおりにしろ)”と怒鳴られました。 半信半疑で言われた左をめがけて思いきりよくパットすると、右へ90度カーブしたボールはピンに向かいあわや入るかと思ったほどの信じられないパーでした。ラウンド後にメンバーが語っていたのは、キャディは各プレーヤーにハンディをつけて賭けをするので必死に教えるのですが、やりとりが禁止されていた現金でなく生活困窮者に支給されるFood Stamp〔食料配給クーポン〕を賭けていたとのこと。台湾、アジア各国、メキシコや南米などでも、男性のキャディはプレーヤーを競馬の馬に見立てて賭けるのが一般的で、パットをいれるとニッコリ褒めてくれるが、外すと露骨に舌打ちをされたことがしょっちゅうでした。
歩きで45ホール 最後は疲れ果て
軽食、飲み物をすませると、組み合わせを入れ替えてまた18ホール。T社社長は年齢を考慮して、部屋で休養を取っていましたが、連続ラウンドの我々は、まだ40-50代ながらこたえました。 前半はボギー中心のいつものゴルフながら、後半はショット、パットともに粗雑になり、水に入ったりしてダボやトリまで出て、44-49の93と様変わりのスコア。Jimもこちらが崩れ始めると賭けの負けが込んだか、口数も少なくなりました。 その日の締めは、パー3コースの9ホールでしたが、キャディも含めて、みんな足を引きずりながらです。 スコアはどんどん悪くなり、全長わずか950ヤードのパー27なのに、ぼくは池やバンカーなどとお付き合いして9オーバーの36と惨め。 休養を取っていた社長だけが、パット巧者ぶりを見せて、32でベストスコアを獲得。 体のエネルギーを多く使う短いクラブは疲れるとミスが出易くなると言われますが、このパー3コースではそれが如実に現れた結果になりました。
Snakeのプレッシヤー
歩きで45ホールは、若いころには何度かありましたが、40代半ばで日ごろは車中心のNY生活の人間には、意外にアップダウンがあるこのコースは、けっこうきつかったですね。 当日のBetの”Snake”がそれに輪をかけたのは確かです。おやりになった方もあるでしょうが、“Snake”は、誰かが3パットする毎に$1づつ罰金がついて溜まって行き、そのホールで最後に3パットをした人がみんなのそれまでのSnakeを全部かかえることになります。トランプのババ抜きみたいなものです。最終ホールになると溜まったSnakeは数十ドルにも成長していて、短いパットもなかなかのプレッシャーでした。 あの速く難しいグリーンでは、寄らず入らずで、何度も3パットをしましたが、ぼくの後に3パットしてSnakeを引き受けてくれた人がいたので、支払いは免れたものの、気分的には疲れました。普段はラウンド当たり30パットぐらいなのが、この時は40近くになり、ショートゲームのささやかな自信が崩れた思いでした。
足腰パンパンの2日目 小走りのラウンド
翌日は、18ホールをプレーして昼食後に引き上げることになっていました。ところが、ラウンドの途中で連絡が入り、同じ組のカナダ人の会長が、急遽帰社する用件が発生したのですが、小走りでラウンド終了まで付き合ってくれました。もっとも、このラウンドは、腕や足腰もパンパンで、もうゴルフをしたくないと思ったのは、後にも先にもこの時だけです。折角の名コースなのにもったいことでしたが、大慌てのラウンドで97。このラウンドだけはSnake も中止し、短いパットはOK。あたふたと着替えて、荷物をリムジンに積み込み、我々のグループはゴルフ場を後にしました。 ぼくは次の組で回っている当社幹部たちを待っていたいと頼んだのですが、たとえ短時間でもメンバーなしではぼく一人だけコース内にとどまることはできないルールがあるし、後続組には我々が先に空港へ向かうことは連絡済だからと説得されて、やむなくリムジンでクラブを去りました。空港でカナダの会長にお礼を述べて見送り、我々は近くのモテルの一室でビールと昼食を取りました。そのうちに、AC会長、当社幹部が、昼食を終えて出発すると電話があり、ほどなく空港で合流したのですが、当社の役員は顔を見るなり、“お前はどこにおったんや、連絡もせんと”、とすごい剣幕です。訳のわからない叱責でしたが、社長、役員のパスポートや財布をあずかっていたぼくがいないため、プロショップでお土産の買物ができなかったので、ご機嫌ななめの次第でした。アメリカ人の間の連絡の行き違えだったのか、英語で説明を受けた当社役員さんが誤解したのか、真相はわかりません。幸いAC社会長が買物代は立て替えてくれていたので、社長はこれは仕方がないやとぼくをかばってくれましたが、いずれにしても、ちょっとしたハプニングの結末になりました。
Augustaでの聞き書き
当時のAugustaのメンバーは、地元の名士、大手企業のCEOを中心に、100名ほど、International 会員が18名ぐらいと聞いたメモが残っています。AC社会長は、当社社長にInternational Memberに推薦しようかと勧誘していましたが、社長は会員になってもプレーにくる時間が取れないとやんわり断っていました。そのメモには、Initiation Fee(入会金)が当時で10,000ドルと思ったより安いが、年会費はどうかと聞いたら、MastersのTVの放映権料で経費の殆どはカバーされ、残りを会員で均等頭割にするので、毎年金額は異なるが、驚くほど安いとのやりとりが書いてあります。当日のプレー代、キャディ、食事代も、どれぐらいかかったかは明かしてくれず、”東京でやるよりは安いよ“と笑っていただけでした。自分で会員申請はできず、理事や会員の推挙により理事会で審議して決まる仕組みだそうですが、その手順や審査基準などは公表されたこともない由です。
当時は、コースは高温になる6月から9月ごろの真夏は芝を保護するためクローズされ、秋に再オープンするが、年末からはプレーは再度中止されて、Mastersのためのコース改造などを含めた整備に充てていたそうです。これでは、メンバーでも近くの住民でない限り、頻繁にプレーする機会もないわけで、AC社会長も年に数えるほどと言っていました。ハウスキャディも従って収入は限られていたでしょうし、Mastersでバッグをかついだプロがいい成績を取ってくれない限り、賭けに頼らざるを得ない気の毒な面もあったのです。ぼくらがプレーしたころは、ここでは、Mastersの出場者を含めて、プレーヤーはすべてハウスキャディーしか使ってはいけないという規則があったとのこと。今はトーナメントでは自分の専属キャディやゴルフのコーチ、同僚のプロ、家族などや、恋人、友人などの女性キャディを使う選手ももけっこういます。この点は大きく変わったものです。
倶楽部ルールは明快・厳格:会員の同伴なしでは敷地内に一切入れない:
クラブのルールは実に明快で、会員の同伴なしでは、敷地内へ一切入れない規則が今も厳然と守られています。ある駐米日本大使が会員なしでプレーを申し込んだが断られたとか、車で乗り付けたTiger Woodsが、ゲートで“Masters ChampionのWoods”と言ったが、“どこのWoodsさんか知りませんが、メンバーとご同伴でないと、入門を許可できません、この近辺だったら、いいパブリックコースをご紹介します”と言われて、憤然として帰ったという逸話もあります。この話はできすぎのきらいはありますが、ちなみに、過去のMasters Championでメンバーになっているのは、Arnold Palmer, Jack Nicklausの二人だけだそうで、名ゴルファーというだけでなく、人格、ビジネスマンとしての実績、評判も加味して会員に推挙されたようです。実は、メンバーリストはAugusta創設以来、門外秘になっていたのが、10年ほど前にマスコミにリークされ、Rice元国務長官など女性会員が誕生するきっかけを作りました。
メンバーリストが公開されてからは、ここでのプレーをめぐって悲喜劇がいろんな雑誌にも取り上げられています。コネを頼ってやっと西海岸の元大手企業会長の会員に行き着いたが、プレーの後に南部で療養中の母親を見舞いたいので自家用ジェットで連れてくれるならばOKすると条件を出され、さらに探しまわってやっと自家用機を持つゴルファーを仲間にひきこんで長年の夢を実現した人物の話。 何年もかかって地元のあるメンバーの了解を取れたが、プレーの前日に家を訪問したら、家族が出てきて”本人は急死しました“と言われた人。 念願かなってAugustaに出かけ、プレー前にコースで写真を取っていたら、濡れた斜面で転倒して骨折入院し棒に振った男性。 Atlantaに出張の日本人が、タクシーでやって来てプロショップで買物をしたいとゲートで頼んだが断られた、しかし、気の毒に感じた守衛が金を預かって買物をしてくれたという心やさしい話など、たねは尽きないようです。
クラブハウスやロッジの中は撮影禁止でしたが、バー、レストランやコース内の写真はOKでした。従業員、キャディには現金を渡してはいけない、現金のやりとりを(Bet精算も含めて)人前でしてはいけない、グリーンフィ、キャディ料金とチップ、レストラン、バー、リムジンにいたるまで、すべて招待したメンバーが責任をもって支払うなどがルールになっています。 唯一プロショップでの買物は個人支払は自由でした。ご存知のように、外国のカントリークラブでは(社交クラブでも)、メンバーがすべて支払いをする方式で、食事のメニューはメンバー用には品名の横に値段が入っているのに、ゲスト用は値段抜きの品名だけというところがたくさんありました。このようなプレーヤーへの制限だけではなく、実はMastersの観戦に訪れるファンや取材陣もいろんな制約をうけているのですが、そのため、New York Timesは、このコースを “Country Club of NO (何でもダメのカントリークラブ)”と揶揄したこともあったほどです。にもかかわらず、このコースとMastersの人気は衰えることを知りません。かえってこれらの制約がクラブの権威と神秘性を高める結果になっており、綿密な計算や戦略がその背後にあるのではないか、マスコミも実はその戦略の一端を担っているのかなと思わせるふしもあります。
とても地味なスコアカード
コアカードは、名門コースほど地味なものが多いのですが、その例に漏れず極めてシンプルなものでした。 Tee Box(ティーグラウンド)もMastersとMembersの二通りしかありませんでした。最新のスコアカードはどうなっているのか、時代を反映してSeniorsとかLadiesが加わったものになっているのかどうかなど興味はあります。
Augustaと政治家
ところで1950年代のゴルフ好きで知られたEisenhower大統領はここのメンバーでしたが、陸軍士官学校時代アメフトで膝を大怪我し曲げることができず、距離がでなかったそうで、いつも17番ホールのFairwayに突き出た木に当てたり、スタイミーで打てないので、この木を切り倒すよう理事会に提案したことがあります。ところが理事会の会合では、一切この案件を討議せず、White Houseには返事すらしなかったそうです。その時の副大統領はNixonでゴルフは好きでないのに、ボスへのごますりからか、入会申請を出したところ、Robert理事長は“Mr.Nixonがそんなにゴルフ好きとは思わなかった”とただそれだけの返事を出したのです。どちらも無礼なやり方のようですが、権力にこびず、相手の面子をつぶさず、クラブの権威を守った大人の対応として語り継がれているエピソードで、17番の木は今でもEisenhower Treeと呼ばれているのはご承知の通りです。また、高血圧の同大統領は、2パットでいつも止めていたことや、自分のスコアは誰にも言わなかったことは知られています。
当時は男性優位の職場?
Augustaで奇異に感じたのは、女性従業員を全く見かけなかったことでした。ゴルフ場はどちらかといえば男の職場と言えますが、キャディが黒人男性だったのは当然として、普通ならば女性が多いロッジの清掃やレストランでも黒人男性ばかりでした。ぼくらがプレーした時代までは、“キャディは黒人男性に限る”との内規があったそうですが、一般従業員の雇用にもまだこのクラブ独特の男性優位の伝統が守られていたのでしょうか。
30年経てもよみがえる記憶
ぼくが、最初のラウンドのしかも後半を、各ショット、使用クラブまでありありと覚えているのは、不思議なほどです。毎年テレビ中継を見ることで、記憶が増強されて脳に焼き付いているのでしょう。同じラウンドでも、平凡だった前半は、さほどよく覚えていないのに、すいすい運んだ後半ホールの記憶の鮮明さは飛びぬけています。“ゴルフは記憶のゲーム”と言ったのは青木功でしたが、いいゴルフをしたとき、大たたきをしたホールはいつまでも記憶に残るもので、興味深いところです。
ゴルフ この素晴らしいスポーツ
ぼくのゴルフ歴は今年で50年になります。ホールインワン、シングル入り(わずか10年ほどでしたが)、いろんなトーナメントでの優勝、世界各国の有名コースでのプレーなど、ゴルファー冥利につきる有難いことで、中でもAugusta Nationalでの二日間は、ハイライトの一つです。 AC社によるAugustaへの招待はこの年限りだったので、その時にNew Yorkにいた幸運と役得とでもいうべきは、いまだに信じがたいことです。それを可能にして下さった人たちは、ほとんど鬼籍に入ってしまわれましたが、いつまでも感謝しています。ゴルフには、健康維持や気分の爽快さ、ストレス解消などに加えて、難しい問題で落ち込みそうになった時でも何度となく助けられました。ゴルフによるネットワークの広がりも見逃せず、このスポーツを通じて公私ともに幾多の方にお世話になりました。会社勤め、海外駐在、出張などの間は言うに及ばず、8年前に移住してきたカリフォルニアも含めて、ゴルフで知りえた日本人、外国人たちとは、終生付き合える仲です。ときどき日本へ行くのも、グリーンの友との旧交を温めるのが最大の目的の一つなのは言うまでありません。
いつまでもゴルフは続けたい、そしてAge Shootをいつか達成してみたいと、日々ストレッチを欠かさず、チャレンジしてゆくつもりでおります。Augustaでのプレーは、これまであまり話したこともなかったのですが、嶋内さんからのおすすめも受けて、取り纏めさせて頂きました。今年76歳を迎える老ゴルファーの長々とした思い出の駄文にお付き合い頂き有難うございました。
在カリフォルニア
浅岡 敏之
浅岡さんと同じ会社で働いていた者です。この投稿の事をメールでご連絡頂きました。私もアメリカ駐在が長かったのですがオーガスタにはマスターズ最終日の観戦に行った事があります。当時の友人が近くのサヴァンナに沢山住んでいますが会員になっている方はいないと思います。今は大阪の枚方カントリーのすぐ近くに住んでおり会員になってプレイを楽しんでいます。面白くて懐かしい記事楽しく読ませて頂きました。